諏訪眞理子さんの三炭町商店街のプロジェクトを歩いて
田中 修二
● 1 運ぶこと
最近、諏訪眞理子さんとは日本アートマネジメント学会の全国大会が大分で開催されるにあたって(2006年11月25日)、その準備作業をご一緒することになった。そのとき当日会場で参加者に配布される『予稿集』の表紙のデザインを諏訪さんが担当してくださった。出来上がったものは、彼女が2006年1月に大分の久住高原で行なったプロジェクトの様子を撮した写真をもとにしたものだった。
それは深く雪の積もった林の中で、一人の女性が大きな雪のかたまりを抱えて歩いている姿を撮した写真で、とても印象の深いものだった。その印象の深さとはなんなのだろうかと考えてみる。「林」「人間」「雪」「かたまり」「抱えること」「歩くこと」「運ぶこと」「さらにそれを写真に撮すこと」。それぞれの要素がつながっていく中で、なにかがどこかに強い印象として刻まれてくる。
もちろん山の中で雪を運んだからって、それはなんの役にも立たなくて、ただそれはきっと美しいだけだと思う。多分、「美しい」のだろう。それは雪を運ぶ彼女にとって。その場を生み出し、それを写真に撮った諏訪さんにとって。そしてその写真を見る私(たち)にとって美しいのだろう。
その「美しい」理由を、別の言葉できちんと説明し、厳密に確定させることはきっとできないのだろうが、その点では「美しい」とは無責任な、無意味な言葉でもある。
ただ、私たちは生きていく中で、その「美しさ」「無意味さ」に賭けねばならないことがあるようにも思う。私たちが生きていくということは結局そういうことなのだなどといってしまうつもりはないのだけれど、でも私たちが「芸術」などという語/概念を作り出して、それを大切にしていることのうちには、そんな要素も大きく含まれているのではないだろうか。そしてそれを大切にするからには、その「美しい」理由をなんとか言葉で伝えようとする姿勢が必要なのだと思う。そうしないと「美しさ」は場合によってはとても恐ろしい言葉にもなりうるから。
たとえば、「運ぶこと」について。
私たちが決してなにかを「無」から作り出せないのだとすれば、それはある場所にあったものを別の場所に運んでいるのにちがいない。たとえばある地層の中にあった大理石を切り出して、運び、別の場所でそれが彫刻作品となるように。そのときある場所からなにかが失われて、別の場所になにかが存在することになる。ただし芸術作品とはその別の場所に(新たに)存在するなにかだけなのだろうか。失われたこととは芸術作品にとって意味をなさないものなのか。
もしその失われたことを大切にしようとするならば、私たちはきっとその「運ぶ」という行為へと目を向けることになるだろう。その視線はか弱い、優しすぎる、ときに哀れみを含んだものであるかもしれないが(その優しさが優越感の裏返しであることもありうるのだが)、とはいえ「運ぶ」という言葉の響きには力強さも感じられよう。その力強さに、失われたことを思いつづける意志を托すことができないものだろうか。
● 2 とどまること
「国民文化祭・やまぐち2006」の一環として、宇部市で開催された「彫刻展」で諏訪さんが発表された《宇部・三炭町(さんたんまち)と私 「働きます」》は、宇部新川駅からほど近い「三炭町商店街」でのプロジェクトだった。
この「彫刻展」は15名・グループの美術家がそれぞれ、主に宇部市中心部の商店街を舞台に作品を制作・発表するものだった。宇部市といえば戦後の都市復興の中で、その後全国的に拡がった「彫刻のある町づくり」の活動の先駆となる「町を彫刻で飾る運動」を行ない、現在も2年に1度、「現代日本彫刻展」をコンクール形式で開催している。
けれど興味深かったのは、今回の「彫刻展」での作家たちの制作・発表のほとんどが、そうした「彫刻のある町づくり」からははずれた場所で行なわれた点である。その主催者側の意図がいかなるものであったのかはいまのところ判断しきれないのだが(というのは、主催者の側でその意図に全くぶれがないのかどうかわからないということもあって)、私にはそれがとても意味深いものに思えた。
その興味深さ、意味深さとは次のようなことである。これまで開催されてきた「現代日本彫刻展」で選ばれた屋外彫刻作品は、その多くが市内の公共施設や主要幹線道路沿いに設置されてきた。たとえば市の中心部から少し離れた常盤公園には野外彫刻の展示場があり、またその公園と市の中心部との間に位置する運動公園にも作品が設置されている。さらに市の中心部では、そのメイン・ストリートである国道109号線沿いと市役所の脇を流れる真締川沿いの遊歩道に数多くの作品が設置されている。しかしそれらはいずれも、市民の日常の生活空間から少し離れた印象が(少なくとも今回初めてそこを訪れた私にとっては)あって、それに対して今回の「彫刻展」は「商店街」というその日常の生活空間へと近づいていく試みだったからである。
ただしここで「日常の生活空間」と簡単にいってしまってよいかどうかは本当は問題で、しばしばニュースなどで耳にする「地方都市の中心部の空洞化」の例に漏れず、宇部市の中心部の商店街もシャッターを下ろした店舗がとても目につく。
諏訪さんがその《宇部・三炭町(さんたんまち)と私 「働きます」》を制作・発表された場所である「三炭町商店街」は、宇部市の中心の駅である宇部新川駅から歩いて10分もかからないところにあって、ただし市内の商業地域の中では最も西端に位置する。いわゆる「繁華街」はそこから東に向かって「銀天街」、さらに真締川を渡って「新天町」の商店街沿いに形成されている。だからこそ、「三炭町」は町の中心部よりももっと庶民的な雰囲気を漂わせている。より正確にいえば、「漂わせているところだった」のだろう。
その場所で諏訪さんがやったこととは、まず空き店舗の目立つ商店街の中の1つの建物を使って、そこを事務所兼作業場兼展示室といった感じの拠点とすることだった。「拠点」を「観測点」と言い換えてもよいだろう。あるいは「出発点」とも。そこに展覧会の会期以前から数ヶ月間とどまることで、彼女は商店街の人びとと交流し、その中に自らの「作品」を作り上げていった。
その経過を私は実際に見たわけではない。私が行ったのはすでに展覧会の会期中で、商店街の靴屋さんにはいつも売っている靴に混じっていろいろな人が手作りしたカラフルな靴が置かれ、時計店のショーウインドーには金色の葉っぱが積もっていて、ほかのお店では今回のために作られたTシャツや絵葉書を売っていた。喫茶店ではお客さんに黒い紙で作られた《三炭町の靴》という「小さな彫刻」を手渡してくれる。そして彼女の「拠点=観測点=出発点」である建物の室内に置かれたガラスケースの中には、昔、たくさんの人たちがそこで買い物をして賑わっていたころの様子が写し出された古い写真類などが置かれ、その隣の部屋にはそこに暮らす人びとの声が流れていた。
● 3 断片と持続
それらはみな、いろいろな「断片」でしかない。市販の靴や雑貨にまぎれて、あるいはここで生活をしている方々の写真アルバムの中から1枚ずつ取り出されて、また《三炭町の靴》や絵葉書などのように誰かの手に渡っておそらく多くはすぐに忘れられてしまう、そういったものである。ただしよくよく考えてみれば、私たちはそんな「断片」の中で、あるいはさまざまな出会ったものをそんな「断片」にしていきながら、生きているのかもしれない。
諏訪さんが今回行なった行為とは、しかし、そんな「断片」をさらに生み出しながらも、それらをかき集め、あるいは手渡しし、なんとかつなげていこうとすることであったように思える。1つの場所にとどまって、プロジェクトのタイトルにあるように「働きます」というのは、手探りしながらなんらかの「持続性」を見つけ出そうとする行為とでもいってもよいだろうか。このことは、冒頭で述べた雪を「運ぶ」ことともつながっていると考えられる。
それはとてもかすかな行為でしかないかもしれない。他の人が働いていることを私たちは全く気にする必要もない。しかもそれは「日常」において一般的な意味では必要のない「働き」であろう。ただしその商店街が、ほかの市民たちにとってどこまで「日常」なのかも難しいところではある。そこに1人の作家の、つまりは商店街の人でもほかの市民でもない「他者」の意志が介入する。もしもともと「働く」ことが一種の匿名性をもっているとすれば、作家とはその匿名性をひっくり返す。そんないくつものかすかなずれによって、わずかにでも未来に開かれた糸口のようなものがそこにのこったとすれば、それはなにか大切なものであるようにも思う。
● 4 離れるとき
日本の近現代の彫刻史について研究していて、とても恥ずかしい話ではあるのだけれど、私にとって宇部を訪れたのは今回が初めてだった。さきに述べたようにそこは戦後の彫刻を考えるうえで欠かすことのできない場所なのである。
大分から東京への出張の帰り、宇部の空港に降りて、そこからバスに乗って常磐公園に行き、まず公園の中に設置されたいくつもの屋外彫刻作品を見て回った。さらにバスで町の中心部へと向かい、車窓から大通りに沿って設置された彫刻作品を眺めつつ終点の宇部新川駅で降りた。それから今回の「彫刻展」を見て歩いたのだが、それをひととおり見終わったあとは、再び市役所の横を流れていく川沿いに設置された屋外彫刻作品を見ていって、最後に戦前の近代建築の代表作の一つである《渡辺翁記念会館》まで足を伸ばして、その敷地内にある高さ8mの台座に立つ朝倉文夫作の《渡辺祐策翁銅像》(1936年)を見て、もう一度諏訪さんのところに戻った。
そんないたるところに彫刻が設置された宇部の公園と町を歩いてみて、とくに戦後1960年代から設置されていったいわゆる「野外彫刻」の数々を見て、とても失礼な言い方であるとは思うがあえて率直にいえば、「彫刻の墓場」という言葉が頭の中に浮かんだ。その理由とその言葉が意味することを本当はここでちゃんと説明するべきなのだろうけれど、いまは許してもらおう。ただしそれを単に否定的なニュアンスでいっているのではないことは念のために断っておこうと思う。
けれど驚いたのは、その後宇部に行った話を東京の親しい彫刻家のかたにお話ししたとき、彼の口から全く同じ言葉が出てきたことだった。もしかしたら宇部の人たちのうちにも、それと同じようなことを考える人がいて、そのことが、つまりいままで自分たちがやってきたことのあり方を問いなすことが、今回の「彫刻展」につながっているのではないかとも、ふと思ってしまう。前述のようにそれは「彫刻のある町」の「彫刻のないところ」で行なわれたものだった。
ただしいまここで話したいのは、たとえその町が「彫刻の墓場」であったとしても、そこに立つ1つひとつの屋外彫刻作品の存在することの強さであった。それは「見られつづける」ということとは(残念ながら)直接は関係なく、「ありつづけている」ということの凄さ、壮絶さだった。一方で「彫刻のないところ」で開かれた「彫刻展」は、会期が終われば、少なくともその物質としての存在は失われてしまうものなのである。
そのときどうするのか、それでよいのかが、諏訪さんの作品もふくめ今回の「彫刻展」の、さらにいわゆる「現代美術」の多くの部分がもっている性格(たとえばインスタレーション的なものなど)についての、やはり考えておかねばならない問題なのだと私は考える。とはいえ、それでよいのかもしれないとも思うことがあるし、こうあるべきだといったような答は私も用意していない。
聞くところによれば、今回の「彫刻展」のときにはまだ架かっていた三炭町のアーケードは、その後撤去されることになっているという。その長い屋根という物質的な存在は、おそらく1つの商店街というまとまりを維持しつづけてきたうえでのとても大きな役割を担っていたと思う。それがなくなったとき、その空間はまだありつづけるだろうか。すべては「断片」化されていくことにならないだろうか。諏訪さんの作品は、1年後、10年後、あるいは100年後になんらかの痕跡をのこしているだろうか。そのときには、さきに述べた「糸口」が、赤い血を吹き出しつづけるような、それとも膿を出しつづけるような「傷口」となっていてもかまわない。その時間の長さが、彼女の作品の「持続性」を試していくようにも思うのである。
田中 修二(たなか・しゅうじ)
1968年京都市生まれ。成城大学大学院文学研究科美学・美術史専攻博士課程後期修了。博士(文学)。現在、大分大学教育福祉科学部助教授、屋外彫刻調査保存研究会運営委員。主な著書・論文に、『近代日本最初の彫刻家』、『彫刻家・新海竹太郎論』、共著『すぐわかる日本の美術 絵画・仏像・やきもの&暮らしと美術』、共著『カラー版 日本仏像史』、共著『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』など。
※以上は、2006年当時のプロフィールです。田中修二氏は2024年現在、日本大学芸術学部美術学科教授です。