かすかな・けはいの・影 ひかりとして
安部文範
狭い画廊の入り口を抜けると、いつもとちがう溢れる光りに驚かされる。そっ気ないくらい何もない空間にわずかな彩りが見えはじめ、通りの音が響く。壁の一角の、常ははめ殺しの板で隠されている窓が開いているのに気づかされる。そこから外光がなだれこみ、ざわめきが流れこんできている。
いつもは閉まっている収蔵庫の扉が少し開いてるのも見えてくる。2足のカラフルなサンダルが転がっている。扉の中を覗くと、古い襖が嵌めこんである。いかにもそこに部屋があるかのように。
初めてここを訪れた人だったら、襖を開けようとするだろうか、靴を脱いで上がろうとするだろうか。画廊などを含む設置する場の、空間のありようやその歴史も踏まえた成り立ちを、丁寧に読み解いて取りこんでいくだけでなく、その機能や構造を解除し開いていくこともめざされている。さらには展示空間そのものの意味を問い直し、だから当然にも、それらの前提をなす「作品」とか「美術」とかいう概念も問い返されようとする、たぶんもっと遠い遙かなことまでも。
見慣れた空間に、予測もしなかった場が出現する、それもいたけだかにではなく、生活の延長上にあるかのようにさり気なく。それは、ぼくらが常日頃どれほど強く決まりきった発想や思考方法、ことばや論理に閉じこめられ、固定されてしまっているかを改めて思いおこさせる。またそういった感じ方 感受から離れようとする時でさえ、その否定の発想そのものもまた、同じ鋳型に取り込まれてしまいやすいということも。
だから何かを改めてきちんと視ようとし、何かを語ろうとする時に採られるのは、自身の視線そのものにも、「視線」という考え方そのものにも十分自覚的でありつつ、ただ受けとってみよう、掴んでみようとする方法だろう。そうしてささやかな変化、かすかな動き、そういったものを積み重ね、穏やかな形で、でもはっとするほどのしなやかな強さでその底を支えて伝えようとする。丁寧にひとつひとつ並べていき、視覚的な美しさや官能さえも産みだしていく。風が何かを揺らして消えていく、「聴こえましたか」というひっそりとした問いだけ残して、そんなふうに。
視覚的にも美しいと感じとってしまうのは、これまでの「美術」観に寄りかかっているからでなく、かそけさとでもいったものに目を凝らし掬い取ろうとしつつも、それさえもが移ろっていくことを十分意識して、形になるのを、またはならないのをじっと待つからだろう。風とよぶには儚すぎる、あるかなきかの空気の動き、光と名づけるしかないきらめきや反映。とけ込むようにするりと影と入れかわり、入れ子状に組みこみあっている光、その深さ、通りぬけていく風に感応する肌、そのとりとめのない遠さ、体の奥深い場所が揺れて、時や空の果てで生まれるなにかに、共鳴するもの、そういうことなのだろう。
そういったものは、穏やかで勁い持続力と一瞬を掴む鋭利さとの狭間で初めて産みだされてくる。淡い影、その重なり、それはどこまでいっても形を結ばない、増していく暗がりは、でもある時点でおいに透明に突き抜けられてしまう。壁のように見える何干もの糸、透過するビニールやガラス、皮膜のような金属板、くっきりとしているのは影だけだ、まるでそれこそが実体であるかのように。硬質な真の翳りは、どこかでふいに自熱しきった光に見え始める、空気や音の揺れが、奇妙な凝った塊に感じられてしまうように。靴下をするりと裏返すように、どこかで何かがすり抜けられ入れかわっていく、明度のずれだけで全てが位相をずらすように。
予定調和でしかない安定的な空虚ではなく、調和というひとつの制度さえ、すでに重たく感じられてしまう場に来てしまった今、求められるのは一瞬の永遠といったようなことばでしか語れないもの無限の自由さとでもよぶしかないもの、それはもちろん無とか虚とかいう、実そのものをただ裏返しただけのものではない、たとえば、硬い気配、確としたかそけさとでも言ってみるしかないもの。光は遍在し渦巻き溢れ、そうして誰もがそのなかにとりこまれ、同時に全てをとりこんで存り続ける。
(著述・翻訳業 2004.11.25)